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敬語など

文化庁がまた日本語の使われ方を調査して発表した。いつも思うんだけど、こんなことを国の機関が調べてどうしようというのだろう。今のところブロガーにネタを提供する以上の意義を感じないんだけど。文化庁に所属する研究員もいると思うんだけど、大学あるいは民間の研究者に任せておけばいいじゃないか。

年長者が若年層よりも誤用を犯しているというのはなかなか興味深い結果だが、それよりも「汚名挽回」が相変わらず非標準と規定されているのにちょっとがっかりした。『問題な日本語』ISBN:4469221686、これは誤用ではないという説が披露されていて、目をひらかされた思いがしたから。「劣勢を挽回する」のように、挽回の目的語は取り戻す対象とは限らず、回復する前の状態を表す語もくることができるという論理である。説得力がある。こういうのも日本語におけるコロケーションの研究が進めば精緻化されてくるだろう。

もう一つこれに関連しての感想としては、けっこう敬語が乱れているんだなということ。おれカネ先生橋本治を引いて書かれているように、現代では「敬意を表すこと」を目的とする敬語の使用機会は確かに減っていると思う。それも原因の一つには違いないけど、学校で敬語がちゃんと教えられていないというのも大きいんじゃないか。
古語において敬語の機能は「敬意を表す」だけじゃなかった。用言を補助して文意を明確にする役割ももっていた。
これはぼくが中学から高校にかけて古典を教わったD先生の薫陶の賜物なのだが、尊敬語・謙譲語・丁寧語という分類は、敬語の機能を十分に表していない。いわゆる尊敬語は主体尊敬(動作の主体に対する敬意を表す)、謙譲語は客体尊敬(動作を受ける側に対する敬意を表す)、丁寧語は対者尊敬(話している相手に対する敬意を表す)と考えればよい。少なくとも学校文法の段階ではこれで十分だと思う(ウィキペディアの敬語の項には何やら専門的な説明があるが)。「謙譲語」を、話者がへりくだるものではなく、動作を受ける側に対する敬意を表すものととらえることがポイント。
「申される」という言い回しは、「申す」が謙譲語=客体尊敬、「れる」は尊敬語=主体尊敬であると考えればそれ単独では間違いとは言い切れないが、「部長が私たちに申された」という使い方は「私たち」に対する敬意を表すことになるからおかしいわけだ。古語では「申し給ふ」というフレーズがよく出てくるが、話者にとって「言う」主体も「言われる」客体もともに敬意を表す必要がある立場の人だから、こういう言い方をしなければならないのである。
要するに、用言にくっついている助動詞や助詞などが、敬語という形を借りて、主語をある程度限定する機能も持っているから、主語を表面的に省略することもできたのである。
先生はこういう説を、この用例は源氏物語にはいくつ出てくるとか出てこないといった根拠と共に示してくれて、今思えば非常に恵まれていた。日本語の論理性を英語の文法を学ぶのと同じ感覚でつかむことができてありがたかった。だから間違った敬語を使っている人を見ると、ああちゃんとした国語教育を受けられなかったんだなあと思う。「ちゃんとした」というと語弊があるから、「論理的な」とか「すっきりした」と言った方がいいかな。日本語教育ももっと論理的にやってもらいたいものだ。