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文学

このところ、斎藤兆史野崎歓『英語のたくらみ フランス語のたわむれ』を読んだこともあって、文学作品をもうちょっとまじめに読んでいこうという気になっている。
同書の著者2人が主張していたことの一つに、文学作品で使われている言葉は非常に豊かで質の高いものだということ。これは、「何年も英語を勉強してきても会話すら満足にできない、もっと実用的な語学を」という近年の風潮に対する反論の一環で、これを補強するための例として、東大で実用英語主義に基づくカリキュラム改革を主張してきた理系の先生を肴にして、この先生の書く英語は、将棋で言うと初段をとったぐらいのアマチュアが世界で一番強い気になっているようなものだと揶揄していて笑ってしまったが、要するにちゃんとした英語を書けるような教育を目指すなら、文学の言語こそ手本とすべきもので、これを「役に立たない」の一言で切り捨ててしまってはいけないという主張である。
中条省平文章読本 文豪に学ぶ文章テクニック講座』ISBN:4122042763、拠って立つところは上記の2人に近い。文豪が文豪たる所以は意図を効果的に伝える技術が卓越していることだとして、その技術が発揮されている箇所を引用しながら解説している。とくに大岡昇平『野火』を取り上げた章などは、目の付け所にうなってしまった。
ただ最終章の村上龍へのインタビューはちょっとがっかりだった。あまり正面切って取り上げられることのなかった村上龍の文章の技術面に切り込むと宣言しているが、たしかに中条氏は切り込んでいるものの、ドラ先生はそれほどちゃんと答えてないんだよね。そしていつものことながら、「チャーリー・パーカーみたいな良質のアドリブを連想します」とほめられると、「ジャズの方法は好きじゃないんです。インプロヴィゼーションなんて幻想でしょ。脳内のハードディスクから引っ張り出してるだけで」とジャズ批判。いや、脳にハードディスクなんてねえよ、あなたの書くものだって手癖フレーズ満載じゃん、「マンボキングズの小説はよかったけど映画はよくなかった」とか「良質のポップスは精神性がない」とか、エッセイだけじゃなくて小説の中でも読まされて倒れそうになったよ、とか反論したくなった。村上龍は「大事なのは精神論じゃなくて技術だ」という精神論を主張してることが多い。
あと気になったのは女性作家の文章が全然含まれてなかったこと、というより想定読者の中には女性も多かろうに、そのことに対する説明がなかったこと。
でもやっぱり文学作品だけでは言葉の世界を網羅することはできないのは確実で、この「文章読本」を読んでも日本文学にフィールドを限定しているがゆえの息苦しさを感じてしまった。文学者も生き残りを目指すなら、文学作品だけじゃなくてもっと広い範囲を取り扱ってそこから上質の言葉をきちんと評価して提示するという努力をしていかなければならないんじゃないか。かつて高橋源一郎が積極的にやっていたことだけど。たとえば政治の言語についてessaさんの卓見なんかを見てもそう思う。そういうのを必要としている分野は実は多いんじゃないだろうか。理系の先生を笑うのは簡単だけど、そういう人たちが手本とすべき文章が何であって、それはどこがどういうふうにすぐれているのかを示してあげることが大事。もちろん、東大駒場の先生方はそのへんまでちゃんと考えてやってるのは承知してます。

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ