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悩ましい翻訳語

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科学分野の翻訳家/フリージャーナリストの垂水雄二氏のエッセイ。科学用語で日本語に定着した訳語のうち、原語の意味から離れてしまっているもの(要するに誤訳)などを検討している。概念や事物自体がもともと日本に存在しないものを言葉として造り出す際にはさまざまな誤解が入り込む余地があった。中国語での漢字の用法まで目配りが利いている箇所も多数あり、なるほどと思う。
ただ、「今さらそれを言ってもしょうがないんじゃないの」という面がある言葉もそれなりにあるのは確か。「恐竜」も一種の誤訳だと言われるが、本書での説明は次のようなもの。まず、英語のdinosaurusはギリシア語のdeinosとsaurusをつなぎあわせたものである。

このdeinosは形容詞で恐ろしいという意味があり、saurusはトカゲすなわち爬虫類という意味で使われているので、英語ではterrible lizardと訳されてきた(『オックスフォード英語大辞典』でもそうなっている)。これが日本語(および漢語)では恐竜と翻訳されたのである。

ところが近年、[リチャード・]オーウェンはdeinosを最上級、つまり恐ろしいほど大きな、という意味で使っていたことが明らかになり、fearfully great, a lizardが正しい英訳だとされるようになった(スミソニアン博物館でもこちらを使っている)。そうなると恐竜は一種の誤訳という話になってしまう。もはや取り返しがつかないのは、言うまでもない。(p. 105)

英語でも誤訳してるんだから重訳したものが間違っていてもしょうがないし、「恐ろしい」なんて主観的な語を額面通り受け取らなきゃいけない理屈はないから「恐竜」でもいいようなものだが。だいたい大きくない恐竜だっていくらでもいるし、そもそもの命名がおかしいという話にはならないのだろうか。それにfearfully great, a lizardなんて説明的な言い方は自立した訳語と言えるのか。

読んだときに付箋を貼った箇所は、その意図を忘れてしまったが、もしかしたら記述の怪しい部分を含め、気になった箇所だと思う。

生け花によく使われるカスミソウの英名baby's breast[ママ]もしゃれている。和名は全体的な植物の姿をよくとらえているが、英名は小さな白い花の一つ一つを赤ん坊の吐く白い息に喩えているわけだ。(p. 46)

カスミソウの英名はbaby's breath.breastだと「胸」になってしまう。

材木としての木の特性は、植物学的には材と呼ばれる木質部によっているが、これもwoodと呼ばれる。というようなことを考慮すると、woodsというのは森の大きさだけで使われるのではなく、用材林として、頻繁に人間が出入りする森という含意があるらしい。(pp. 60-61)

[公害]はある意味で政治的な誤訳である。pollutionはどう考えたって汚染でしかない。公害というのはもともと、英国における法律用語の翻訳である公的生活妨害(public nuisance)を縮めたものである。これはある行為が特定の個人ではなく、地域共同体全体に被害をもたらすことに関する民法上の不法行為、刑法上の犯罪を指す言葉である。(p. 66)
(……)
公害と深く関係した言葉で、やはり政治的な誤摩化しのある訳語はpesticideの「農薬」である。この単語は文字通りには、post(害虫、有害動物)をcide(殺すもの)という意味であり、殺虫剤にほかならない。(p. 67)

人間の老化を専門に研究するのは老人学(gerontology)で、老年学、老年医学、あるいはカタカナ読みで、ジェロントロジーと呼ぶ(この語の初出は1903年、老人病学を意味するgeriatricsは1909年が初出)。(p. 82; 原文の年号表記は漢数字)

エソロジー[動物行動学ethology]の成果の一つは、動物の行動のメカニズムとして、生得的解発機構を明らかにしたことである。この説を単純に要約すれば、特定の行動に対する欲求が高まったとき、適切な刺激(これをリリーサーreleaserと呼ぶ)が与えられれば、抑制が解かれて行動が解発(release)されるというものである。(p.130)

これは「解発」という語が目新しくてメモしたものと思う。

神人同形同性説 anthropomorphism
多くの英和辞書にはこの訳語がまず出てくるが、神話学や宗教学に関する本でないかぎり、この訳語はまちがいである。これは「擬人主義」ないしは「擬人観」と訳すべきものなのである。(p. 145)

inbreedingのもっとも一般的な訳語は近親交配で、人間では血族結婚や近親婚と訳されることが多い。遺伝学では「近交」という短縮形が一般に用いられ、近交を繰り返すことによってできた系統を近交系(inbred line)と呼ぶ。(p. 153)

この単語[transformation]は、きわめて多様な使い方をされるので、場面によっては訳し分ける必要がある。まず言語学では「変形規則」、経済学では「転化」、電気分野では「変圧」、鉱物学では「(相)転移」といった具合である。(p.161)

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳
垂水 雄二
4896949463