小さい頃から運動は苦手で、自分が50歳を過ぎてからフルマラソンを走ることなど想像すらしたことがない人生を送ってきましたが、それでも実は運動部に所属した経験があります。そのことについて書いてみます。長文です。
通ったのは地方都市にある中高一貫の進学校だったのですが、今でいうスクールカーストみたいなのはやっぱりあって、運動のできない生徒は二級市民という扱いでした(一級市民側が意識してそういう行動をとっていたわけではないとしても、二級市民側はどうしても引け目を感じてしまうのです)。
部活は中高が一緒に活動するクラブと別々のクラブがあって活動時間の長さも強度も種目によって違いますが、運動部に入るのは総じて運動のできる子だけでした。もちろんそれが当然なのですが、運動のできない子にも体を動かしたいという欲求はそれなりにあるわけです。
そして中学3年生のときだったと思いますが、同級生のうちの何人かが語らって、それまで運動部に属していなかった生徒で集まって、時々ランニング程度の軽い運動をしようということになりました。陸上部がやっているようなハードな練習にはついていけないけれど、できる範囲で定期的に体を動かそうというわけです。僕も参加する流れになり、最終的に10人ぐらいが集まりました。
体育の時の服装で学校の周りの道路を走るだけなので設備も用具もいらないのですが、それでも着替えのスペースは必要になるので、学校の施設(つまり放課後の教室)を使うことのできる同好会組織として認めてもらおうという話になりました。
同好会にするには、教職員の顧問が必要になります。
それでお願いしたのが、その年度に着任したばかりの理科(生物)の石田先生でした。髪の毛はかなり後退していましたが、まだ若くておそらく20代で非常勤じゃなかったかな。前の年度に生物分野を教えていた、やはり若い男性教師が辞めた後任でした。前任者は我々と年齢も近いし性格も明るく、バイクに乗っていたりして、スクールカースト上位の男子生徒を中心に人気がありましたが、後任は対照的に背も小さいし若ハゲで風貌は孫正義氏に似ていました。声も小さくて自信なさそうなしゃべり方で、教師に向いているとは思えない人でした。
なぜ石田先生に顧問をお願いすることにしたのか正確なところは忘れましたが、おそらく部活の顧問など担当していなくて頼みやすかったといった程度の理由だと思います。
多少は渋ったかもしれませんが結局は引き受けてくださり、「アスレチック同好会」として活動が始まりました。
といっても放課後に集まって着替えて準備体操をして学校の周囲を走るだけです。大会に出たりはしません。顧問が活動を見に来るといったことも何回かはあったかもしれませんが、基本的には放置です。
特に目標を掲げるわけでもなく、すぐフェードアウトしてもおかしくなかったと思いますが、活動をしたりしなかったりする部員が多くても、それなりに人数がいたので年度末までは継続しました。他の学年の人に呼びかけて部員を募ったりはしませんでしたが。
もしあのまま存続していれば、「ゆる部活」の先駆け的な存在として尊敬の念を集めていたかもしれません。
しかし「アスレチック同好会」が次の年度を迎えることはなく、あっけなく解散してしまいました(このあたり記憶が曖昧です。実際には次の年度に入っていたような気もします)。
その理由は、顧問の石田先生が亡くなってしまったからです。
ガンでした。若いので進行が速く、短い闘病生活の後あっけなく亡くなってしまいました。遠い郷里からお父様が学校に来られて挨拶をなさったような記憶があります。お世話になったのに葬式にも出なかったな……。
新しい顧問を迎えて活動を継続するかどうか、みんなで話し合った末、高校に進学するタイミングでもあり、いろいろ環境も変わるし、体力のついた者は運動部に入るなりしてもよいのではないかということになり、解散という道を選びました。僕を含めて2人が陸上部に入りました。
ちなみに、陸上部に入るにあたって初めて買ったランニングシューズがブルックスでした。
30数年ぶりに買ったブルックスのランニングシューズ。わりと高反発。
しかし当時そんなに練習がきつい部ではなかったのですが自分の実力はやはり水準以下でした。市の大会にも出場はしましたが、1500m走の予選で周回遅れすれすれ、拍手に迎えられてゴールするという屈辱の経験を2回重ねて、これは続けても無駄だと思い、半年で退部しました。アスレチック同好会再興という考えが浮かばなかったのは今思えば不思議ですが、勉強に専念するという名目で放課後もっと遊びたかったのでしょう。
陸上部に入ったもう一人も僕と同じ中長距離で、彼はけっこう速かったのですが怪我に悩まされていたようです。
という感じで苦い記憶も残る、昔のゆる部活の思い出でした。
ところで、当時のメンバーの何人かとはFacebookでつながっているのですが、医者になった比率が高いのはともかくとして、言い出しっぺの一人はホメオパシーを熱心に伝道してるらしいんですよね。ある意味一貫していると言うべきでしょうか。ちょっと複雑な気分です。