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今こそケルアックを読む

緊急事態宣言下の自粛期間には読書に精を出そうと思って買った本、積んだままのものがまだまだたくさんあります。その中の1冊だったジャック・ケルアックの『孤独な旅人』(河出文庫)を先日やっと読み終えました。

ケルアックはビート・ジェネレーションを代表する作家の一人です。ビートは主に1950年代のアメリカで若い詩人や作家が展開した文学運動ですが、一過性の流行で終わらず、その時々の若い人を中心に70年以上経った現代まで読み続けられているわけです。すごいことですね。

僕もご多分に漏れず20代の頃に読みました。まあ、それほど夢中になったというわけでもないのですが。工場勤めのとき、夜勤明けの電車に河出文庫の『路上』(福田実訳)を持って乗ったら、サラリーマン風のオヤジに「けっカッコつけやがって」みたいなことを吐き捨てられたことがありました。あれが会社を辞める伏線になっていたかなあ……なんてことはないか。

訳者の中上哲夫さんは解説でケルアックについて、旅が創作の源泉だったのだろうと喝破しています。旅、そして移動というのがケルアックの作品において魅力的に見えるのは間違いないところです。この当時はアメリカ大陸においても移動手段として鉄道やバスが現代よりも大きな役割を果たしていたというのも大きいでしょう。コロナ禍の現在ではよりいっそう輝いて映ります。

僕の印象では、ケルアックはシステムから距離を置いてどうやって生きていくかを模索した人で、その記録が散文作品だと位置づけることができます。体制に反抗するというより、利用する(もっとかっこよく言い換えれば、ハックする)という感じがかっこいいんですよね。国立公園の山火事監視員として孤絶された山頂で3カ月過ごせば、金も稼げるうえに使わずにすむし、その間に思索に耽ることもできる、とかね。その結果、大いなる自然に畏怖心を抱いたりする。

このエピソードは、8編からなる作品集である『孤独な旅人』の中の「山上の孤独」で描かれているものですが、長編作品の『荒涼天使たち』の冒頭部分にも出てきます。こういうネイチャーライティングの系譜に連なる作品も、今読んだらなかなかおもしろいんじゃないかなと思いました。

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先週末のかなとこ雲