賞味期限についてこのところよく考える。村上春樹が翻訳について語るときによく持ち出すあれのことである。耐用年数という表現だったか? 紀伊國屋書店の本棚で見かけた2009年1月1日(奥付)刊行の『ヒットメーカーの寿命』を買ったときに頭にあったのもそのことだ。副題は「阿久悠に見る可能性と限界」。帯には「マーケティングの天才の『成功法則』は、なぜ15年しか通じなかったのか?」とある。
阿久悠の「初の本格的評伝」だそうだ。「15年しか」とあるが、15年も第一線で活躍し続けたのは大変なことに違いない。もしかしたら、この本の内容に対して感じた違和感は、「15年しか」ととらえるか「15年も」ととらえるかの違いによるのかもしれない。というよりも、著者は「作詞家としてのピークは「1977年」前後か」(原文は漢数字)という一節もあるように、本当は80年代以降すでに阿久悠の賞味期限は過ぎていたことを理解していながら、賞味期限の到来を早めた‘時代’に責めを負わせるような筆致に流れてしまったのではないか。その部分に対して、読み手としていらだちを感じたのだろうと思う。
特にそれを感じたのは「『沢田研二』人気が失速した理由」のあたり。第3章「パロディを多用する意味」、第4章「何が『阿久悠』を生み出したのか」のなかにし礼とのライバル関係のところなんかは、実際に読んでみておもしろかったのだが。
沢田研二の人気が下がっていったのは、70年代という「女性の時代」にあってなんとか独自のポジションというかキャラ作りに成功した(そしてその功績の多くは阿久悠に帰する)が、要するにその後の時代の変化についていけなかったというのがこの本の書きぶりである。彼ら70年代の主人公たちが退いた後、ユーミンに代表される「私」を前面に押し出した歌詞の世界を展開するニューミュージック系の人たちが台頭して、その流れが90年代のJ-POPにつながるという解釈。大筋としては別に間違ってはいないと思うのだけれど、何か大事な部分を取り上げそこねているんじゃないかという気がする。
阿久悠にしろ沢田研二にしろ、70年代はシングルが勝負の舞台だったのだ。それが80年代以降、家計の可処分所得も増えるから売上の主体はアルバムに移っていく。流れに乗れたか乗れなかったかは結局そこのところが大きかったんじゃないかと思う。「ニューミュージック」の何が新しかったかというと、阿久悠とかの職業作家が作ったお仕着せの商品ではないものを歌うというイメージそのものであり、そのイメージの中にはシングルではなくアルバムを活動の主体とするという要素も含まれていたはずだ。僕が記憶しているかぎり、「アルバム」という呼び名が一般化するのも「ニューミュージック」が人気を得ていく過程と時期的にほぼ一致する。もともとは英語からの直輸入だが。それ以前はLPと呼んでいたのが、70年代後期あたりから、LPはプロダクトとしての名称、アルバムは作品を収納するフォーマットとしての名称として分化してきた。作品が構築する世界を論ずるよりも、そういった経済的な生態系の変化に着目するほうが僕なんかはおもしろいと思うのだが、それはないものねだりと言うべきかもしれない。沢田研二なんか、絶頂期でも常に「LPは5万枚ぐらいしか売れない」とされていた。「勝手にしやがれ」「サムライ」「憎みきれないろくでなし」といったヒット曲を収録した『思いきり気障な人生』は30万枚売れたらしいが。
沢田研二は阿久悠以外の作詞家とも組んで大きなヒットをいくつも飛ばしており、阿久悠が創り上げたキャラクターから脱皮することもある程度は成功していた。それでも人気が落ち込んだというのは、賞味期限が来たとしか言いようがないような気がする。「1万時間の法則」という、ある技能を習得して一流の域に達するには訓練の期間として1万時間を要するという説があるが、それの裏返しで、大衆への露出が一定の時間を超えてしまうとどんなすぐれた作品を発表しても飽きられてしまう、というような……。
象徴的だと思うのは、82年の『ミスキャスト』という不吉なタイトルを冠したアルバムだ。井上陽水に書き下ろしを依頼して、白井良明をアレンジに起用した意欲作……だったはずだが、このあたりから人気の凋落が始まった。大麻事件の影響でおとなしくしていた陽水が、入れ替わるように浮上してくるのは不思議な巡り合わせだった。