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50代男性が健康と幸福を追求する日常をつづります

David Bowie is

今年1月から開かれていた展覧会David Bowie is. 会期終了まで1週間という直前に滑り込むことができた。

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中学の時にロックの古典としてZiggy Stardustに触れ、高校ではLet’s Danceのスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターにしびれた自分は熱心なボウイのファンではなかったけれど、体育祭の仮装で「戦場のメリークリスマス」でボウイが演じたセリアズ少佐に扮したことのある身としては、やはりこの展覧会を見に行かないわけにはいかなかった。

いろんな資料でボウイの音楽人生をたどるようになっていて、音楽家の展覧会らしく音声ガイドが観覧者全員に入り口で貸与され、場所ごとに関連する音楽をはじめとする音声が流れるようになっている。しかるべき場所に立っても思うように音声が流れてこないこともあったりして、展覧会という形式で音楽を扱うことの難しさはあるよなあと思った瞬間はあったけれど、総じて期待に違わず楽しめるものだった。

興味深かった点が二つある。

まず、グラムロックというジャンルの水脈の広がりが思っていた以上に大きいのではないかという発見。これは、両性具有イメージに関連する展示のところで感じた。グラムというと時間的にも人脈的にも非常に限られた範囲の流行だったという印象があって、たとえばグラムの中心的存在の一つだったロキシー・ミュージックなんかも80年代の再結成後は典型的なグラムからは遠くに行ってしまったように思っていたが、ライヴアルバムThe High Roadのジャケットのヴィジュアルイメージなんかは、ボウイの女装した姿との親和性を強く感じるし、その精神性はそう簡単には失われていなかったのだろう。

それから、ベルリン時代の特に歌詞の作り方に関して、ブライアン・イーノらが開発したオブリーク・ストラテジーズが重要な位置を占めていたこと。このことはGIGAZINEの記事にも触れられているように、よく知られた話なのかもしれない。しかしブライオン・ガイシンのカットアップ(ボウイはこの技法も作詞に取り入れていた)とともに、現代人の精神世界に与えた影響は予想以上に大きいのではないかという気もしてくるのだった。

ストーナー

新年最初の読書は2015年4月に買ってあって未読だったアメリカの小説『ストーナー』にした。

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書かれたのは1965年、著者ジョン・ウィリアムズが亡くなってからは忘れられていた作品が、2006年に復刊されたのをきっかけにヨーロッパを中心にまた読まれるようになり、邦訳が刊行された時も話題になった。端正な装丁、「美しい小説」という文字が目立つ帯の惹句、今は亡き東江一紀さんが最期に訳した小説といった断片的な情報から想像していた内容とはかなり違っていた。

裕福ではない農場育ちの少年が新設の農学部に入学するが、英文学と出合い出身校で教職を得て定年まで勤め上げ、亡くなるまでの物語。タイトルは主人公の名前だ。思い通りにならない職業生活、波乱含みの家庭生活。なんというか、身につまされる話だった。いろんなことが好転しそうな局面があり、やがてその期待がしぼみ……という人生の波を主人公に思い入れながら追体験するのは正月らしい読書だった。

メアリー・カサット展

印象派の女性画家メアリー・カサットの日本での35年ぶりの回顧展が開催された。 6月から9月にかけての横浜美術館での展示を見逃したので、京都国立近代美術館に出張のついでに行って見てきた。こちらも会期は12月4日までで、あとちょうど1週間しかない。まだ見てない人はぜひ!

ただし行ったのは1か月前。向かいの京都市美術館若冲展をやっていて行列ができるくらい混雑していたけど、メアリー・カサット展はゆったり見ることができた。会期末が近づいているので、今はもっと込んでいるかもしれない。

本人の作品だけではなくて同時期に活躍した女性画家の作品も展示されている。コレクターとしての彼女が収集した浮世絵なども展示されていて、その横に浮世絵から影響を受けて制作した版画が並べられていたりしておもしろかった。

しかし何といっても「母子像の画家」という呼び名が示すように、そういった素材の作品が多い。公式図録の表紙に採用された「眠たい子どもを沐浴させる母親」なんか、「あー、子供って眠たいときにこうだよね、表情とか体勢とか」と思わずうなずいてしまう。 (下の写真は図録の表紙をスマホのカメラで撮ったもので、名字の綴りはCassattとTが重なる)

この画家の名前を知ったのは、やはり印象派の女性画家であるベルト・モリゾと交流のあった一人として、その評伝で名前を見たからだった。10年ぐらい前に買ってあった本がなぜか読みたくなり、そこで知った画家の回顧展がたまたま行ける時期に日本で開催されるという偶然が重なったのだった。幸運以外の何ものでもない。

辞書を使って語彙力をつける

母校の修学旅行生が勤め先に見学に来た。

以前は、会社見学という趣旨から、どういう仕事をしているのかを中心に伝えるべきものだと思っていて、そういう話を組み立てていた(辞書作りの舞台裏)。ここ2年ぐらいで少し考えが変わり、本来の顧客に直に向き合う数少ない機会でもあり、自分たちの作っている商品が何を目指しているのかをストレートに伝えるほうがむしろ相手にも喜ばれる可能性が高いだろうと思い至った。その結果、英語の勉強をするときに辞書をどういう風に活用すれば効果的かということを強調するように変えてみた。ふだんお世話になっている先生の講演からの受け売りなんだけど、生徒からの反応も悪くない。

こんな感じ。

事前にいただいた質問を見て、高校生の皆さんにとってこの会社が出している辞書のイメージというのがわかります。まず思い浮かぶのが国語辞典、それは意味を調べるための分厚い本ということですよね。でも、学習用の二カ国語辞典を作っている立場からいうと、辞書において言葉の意味を伝えるという役割は、極端に言えば半分くらいしかないかもしれません。言葉の意味というより、使い方を知ることができるように、いろいろな情報を載せているわけです。そういうつもりで作っているので、意味を調べるためだけに使うのはもったいない。言葉の使い方を詳しく知るために辞書を使ってほしいのです。

たとえば、「傘」は英語で何というかわかりますか。中学生でも知っているはずです。umbrella ですね。 では、「傘をさす」はどう言えばいいでしょうか。put up an umbrella といいます。意外とここまでは知らない人が多い。英和辞典の umbrella のところにちゃんと書いてあります。これだけでも十分役に立つ情報ですが、今度は put up がほかにどんな目的語をとって、どんな意味になるかとか、疑問が湧きますよね。そこで今度は put のところを引いてみる。そうすると、「建物などを建てる」「掲示や絵などを貼り出す」とか、いろいろな使い方があることがわかります。こういう知識を増やしていくことが、語彙力をつけるということです。英和辞典にはこういうことまで書いてあります。知っているつもりの語でも、辞書を読んでみるといろいろな発見があると思います。

presidential hopeful

アメリカ大統領選挙の報道で候補者のことをよく presidential hopeful と呼ぶ。hopeful には形容詞のほかに名詞としての用法もあって、「前途有望な人」などといった意味になるが、候補者に対してそういう前向きな言葉を使うところがなんとなくアメリカらしい感じがしてけっこう好きだ。

このフレーズに気づいたのは2008年の選挙戦の時だったろうか。

今日、トランプ氏に関するニュースを読んでいたら彼のことを presidential nominee と呼んでいて、そういえば今回の選挙戦では presidential hopeful という言い方をあまり聞かないような気がすることに気づいた。もちろん、大統領選挙候補者を表す言葉はこの二つだけではなくて、たとえば presidential candidate などと呼んでも全然かまわないわけで、自分の好みの呼び方が現れないからといって文句を言いたいわけではない。一つの文章の中で同じ人を指す言葉が複数種類使われることも珍しくない(というか、単一の呼び方で押し通すことのほうがまれ)から、いろいろな呼び方を見かけることになるわけだが、記事の書き手たちが今回の候補者に対してなんとなく hopeful という語を使いたくない気持ちを抱いていたとしても全然驚けない。

そう思って、presidential hopefulという連語が報道でどれくらい使われているか調べてみた。といっても厳密な調査ではなく、自分が無料購読している英米の報道機関のEメールによるニューズレターを検索してみて手でざっと数えただけなのだが。

presidential hopefulだけではなくて、White House hopefulのような言い換えや、GOP hopefulのようにpresidentialという語は出てこないが大統領選の候補者を指すことが文脈から明らかな場合は数えたが、presidential hopefulがベネズエラや台湾の大統領選挙あるいは自民党総裁選挙の候補者を指す場合は除外した。

まずわかったのは、前回の選挙戦つまり2012年の大統領選挙に先立つ期間には、この言い回しが用いられた例は極端に少なかった。このときは現職のオバマ大統領に新人が挑む形だったから、民主党内の指名をめぐる動きの中でも、共和党候補との争いでも、hopeful という単語は新人の側にしか使えないので、そちらのほうが前途有望である(すなわち選出される可能性が高い)かのような言い方はしづらいのではないか。

2008年の選挙のときは、前年の7月ぐらいから各候補が政策を発表したりして選挙報道が始まっていた。手元の資料で (presidential) hopeful を候補者に用いた例を含むニューズレターは全部で48通。うち、ロサンジェルス・タイムズが39通と圧倒的に多かった。ほかにニューヨーク・タイムズが5通など。ガーディアンなど、英国のメディアでも使われていた。

今回の選挙戦では、5月ぐらいから大統領選報道が始まっていたが、(presidential) hopeful の使用はこれまでのところ27通で絶対数は確かに減っている。ロサンジェルス・タイムズは2通に激減し、ニューヨーク・タイムズは11通とかなり増え、ほかにジャパンタイムズが9通で多いのが目立つ。ガーディアンなど英国メディアでも複数回使われていたのは2008年当時と同じである。

ロサンジェルス・タイムズでの (presidential) hopeful の使用が激減しているように見えるが、実は同紙のeメール・ニューズレターは数年前に発行形態が変わっていて、差出人が記者(?)の個人名義になり、内容も新聞紙面のダイジェストではなくてコメントをつけて記事を紹介するような形式になった。したがって、文章も個人のスタイルが強く反映されるようになっている。その差ではないかと思う。

なお、トランプ氏に関する記事で presidential hopeful という表現を用いた例も複数ある。ジャパンタイムズとガーディアンで、米国メディアではないのは気になるが、彼に対して hopeful を用いるのが忌避されていると断言するにはもう少し材料が必要だろう。

結局のところサンプル数が少なすぎるので、2008年と2016年の差は自分が受け取る媒体の変化とちゃんと目を通したかどうかの違いでしかない可能性もあり、今回のメディアの傾向として明確に結論が出たとはいえない。ちゃんと設計したコーパスで分析すればおもしろいかもしれない。

一つの傾向として、(presidential) hopeful という連語がメディアに登場する時期は意外に早いということは言えるかもしれない。2008年の選挙戦報道は上述の通り2007年7月から始まっているが、2007年中の6か月に現れたのが33通だったのに対して、2008年の7か月(まったく現れなかった月もあるので)には18通だった。7月か8月に党の全国大会で正式な候補者が決まるよりはるか前に使われる例のほうが多かったわけである。2015年は5月からの7か月で13通、2016年は8か月で14通。今年も3月までが多かった。これもきちんと分析すればおもしろいだろう。

Fly Free

ジャズヴォーカリスト宮崎幸子さんのアルバム、Fly Freeを入手したのは今年2月のこと。

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僕はサインもいただいた。

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発売からやや時間は経過しているが、素晴らしいアルバムなので改めて称えたい。

ニューヨークと東京で録音されていて、ニューヨーク在住の日本人ピアニスト宮嶋みぎわさんがNY録音の5曲のアレンジを担当している。これがすごくかっこいい。ボブ・ドロウの軽快なI've Just Got Everythingに始まり、スタンダードのHoneysuckle Roseやキャロル・キングのSo Far Awayといった多彩な選曲も新鮮だ。

キュートなルックスを裏切らない歌声だけど、深みを感じる成分があって、こういう感じはどこかで聞いたことがあると思っていろんな人の歌を思い浮かべた。ヘレン・メリルアニタ・オデイ? うーん、ピンとこない……。しかし6曲目のジョアン・ボスコの歌と次のワン・ノート・サンバを聴いて、もやもやは解消する。ブラジルの女性歌手の声を思い起こさせるのだ。言語によって発生方法に特徴があり、日本語話者は口先でさえずるように発声し、英語話者は上半身全体を響かせるように発声する。ブラジル・ポルトガル語の話者はどちらかというと英語話者に近いのだろうと思うが、もう少し頭部を使っているというか高い周波数の成分が多いような感じがする(科学的な根拠があるわけでは全然ありません)。宮崎幸子さんの場合、日本語話者らしい部分もあるけれど、個性的な響きがブラジルのジョイスあたりに近い感じがする。

今月の11日と12日には、1年ぶりに日本に帰ってきた宮嶋みぎわさんやこの録音に参加した寺尾陽介氏も参加してライヴをおこなっていて、残念ながら見に行けなかったが、いつかぜひ生でその歌声を堪能したいものである。

オスプレイの表記の謎

なんかもうオスプレイの話題はニュースバリューとして小さくなりつつあるような気もするが、気になったことがあったので書いておく。
外来語の表記で原語では「エイ」という二重母音になるものは、なぜか「エー」という長母音に変換するのが慣例となっている。そうするとオスプレイではなく「オスプレー」になるはずだが、最近の報道では判で押したように「オスプレイ」。国会の議事録では2006年以前には「議事録では「オスプレイ」とも「オスプレー」とも表記しており、「オスプレー」の方が多い」という情報もあり、今の主流の表記がどこから生まれたのか興味深い。

記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集
一般社団法人 共同通信社 編著
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