z is for zokkon

50代男性が健康と幸福を追求する日常をつづります

「辞書の編集ってアナログなんでしょ?」「いやいやいやいや……」

この記事は「書き手と編み手の Advent Calendar 2019」に参加しています。

adventar.org

とある中堅出版社で10数年にわたり、2カ国語辞典(具体的には英和辞典と和英辞典)の編集という仕事をしてきました。「出版社」「編集」と一口に言っても、扱うジャンルはさまざまで、業務内容も実は会社によってかなり違っていたりします。とりわけ、辞書という出版物は限られた版元しか扱っていないので、あまり汎用性のある話はできないのですが、思うところあり、このあたりで少しまとめておきたいと思います。

三浦しをんさんの小説『舟を編む』は、映画化もされ今は文庫でも出ているのでご存じの方も多いと思いますが、国語辞書を刊行している老舗出版社の社員編集者を主人公とする作品です。これによって世間での辞書編集者のイメージが形作られた部分は少なからずあると思いますが、あれを読んで自分の仕事と違うと感じた部分もありました。

まず一つは、仕事にコンピューターを使っていないところです。

1980年代ぐらいまでは基礎資料作りの一環として用例収集のために紙のカードを使っていたのでしょうが、現在はそれに代わるものとしてコーパス(コンピューターで解析可能な形にした大量のテキストデータの集積)を使用するのが一般的です。また、原稿をタブ区切りのテキストファイルで作成し、それをXMLファイルに変換、さらにXSLTを介してモニター画面や紙に出力して校閲・校正をするといった手法で作業を進めています。それでは絵になりにくいので、文芸作品としては一昔前の仕事の情景を採用したのでしょうし、これは表層のことであって本質的ではありません。

もう一つは、立項する語の選定など著者の責任たる領域にずいぶん踏み込んで仕事をしているというところです。同じ社内であっても、国語辞書の編集者の実際の仕事ぶりはよく知りませんし、編集長がメディアに露出したときの様子からすると、僕が著者の領域だと考えている部分にかなり介入する辞書編集者が存在している可能性はあります。会社を退職して著者に転じる先達が複数いることもそれを裏付けています。

そういう方向に注力するのも意義あることではありますが、僕自身が辞書編集者の仕事として関心を持って取り組んだのは、“工業製品としての特性を保証する”という部分でした。

どういうことかというと、書籍という商品は、大量生産される工業製品の一種です。物体としての書籍をつくる印刷・製本という工程はまさに製造業そのものですが、それを主に担っているのは印刷所や製本所で、出版社は製品の販売者としての責任は負うものの、あくまでも外注する立場です。しかし、前工程としての「編集」という職域にも工業製品としての特性を反映した部分があり、辞書という出版物の場合はそれが色濃いと考えています。

工業製品としての特性として大きく3点を考えてみました。まず、自分にとっていちばん大きかったのは、均質性だと思っています。

辞書でいえば、ある頻度で使われるAという単語に15行を割いて記述したとしたら、同じくらいの頻度で使われるBという単語にも同じくらいのスペースを割くことが期待されるでしょうし、記号類や記述の順序が場所によって乱れたりすることなく、一貫した秩序を保っていなければなりません。辞書の「著者」が単数の著作者であるケースはほとんどなくて多くの人が執筆にかかわるので、編集者によるコントロールは必須です。そして、多くの場合、限られたスペースに収めるために記述を削ることになりますが、その作業を行うことによって、分量もさることながら記述の粒度もある程度そろってくるというのがおもしろいところです。

また、均質性の前提といえるかもしれませんが、正確性・完全性が求められます。

辞書には、書いてあることに間違いがないことが期待されます。それに対する編集者の役割というと、執筆者の誤記・誤変換を修正するといった作業を想像されるかと思いますが、業務量として多いのは、参照のチェックでした。同じような記述を複数箇所で登場させるロスを防ぐために、一か所で集中的に詳述し、他の箇所には参照指示のみを置くということは多いのですが、その指示に対応する参照先が確実に存在しているかをチェックするのは、かなり神経を使う大事な作業です。

一般的な製造業なら工作機械に相当する、確実性をもって編集を行なうツールを使いたいところですが、この点に関してはなかなか思うようにいかず、かなりの部分で目視による作業が必要になるのはつらいところでした。スペルチェックにしても、ソフトウェアを探してはみましたが、単一の行の中に英文と和文がスペースで区切ることなく混在し、発音記号を表現するための特殊な表記形式などもあるという条件では Aspell も効率が悪く、Microsoft Word に少量ずつコピペして文章校正機能を使うのがいちばん手っ取り早くて確実だったりしました。結局は、スペルチェックも参照先のチェックも、社内の別の部署にいるソフトウェア技術者が引き受けてくれたので、自分たちにはこの部分はブラックボックスのままでした。

工業製品の特性の最後に挙げるのは、見た目です。

僕がかかわった辞書の多くは、見出し語の最初の文字ごとに改ページを行なっています。そうすると改ページする直前のスペースが余ることがありますが、それを極力少なく見せるために、記述を削るか増やすかして調整します。この作業が必要になる段階は最終局面に近いので、増やすほうが大変です。途中のページで改行を多くしたり用例で長い固有名詞を使ったりしますが、これをさくっとやってしまうのがベテランの味というところでしょうか。

f:id:zokkon:20191206161014j:plain

これは悪い例

こうやって振り返ってみると、辞書の編集という仕事はやっぱりアナログの面が大きいですね。それだけ苦労したから印象に残っているのでしょう。もう少し自動化・機械化できればよかったのですが、有用な情報をお持ちの方がいらっしゃったらご教示いただければ幸いです。この先、商品として紙の辞書の余命はあまり長くなく、いずれは電子的な媒体に置き換わっていくとすれば、ここで挙げた中で不要になる作業もけっこうあります。それはそれでいいことでしょうね。