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オープンな辞書制作は可能か

(書きかけ)
訓練された専門家の必要性を声高に叫ぶような論調が Wikipedia をめぐってもよく見られた。
ただし、言葉を扱う辞典(=辞書、ことばてん)と、事物を扱う事典(ことてん)では少し事情が異なる。事典のほうは、Wikipedia の現時点での成功によってバザールモデルでの制作に適合したものだということが証明されたといっていいと思う。ブリタニカ百科事典の編集者がニッポン放送の社長に見えてくるぐらいだ。一方、辞書のほうはそうはいかない。

Wikipedia の姉妹プロジェクトの一つに Wiktionary という、読んで字のごとく辞書を作ろうというプロジェクトがあるが、日本語版はこれを書いている時点で方針策定のために編集が凍結されている。これだけをもって「wiki は辞書作りに向いていない」と断定してしまうと、よくある wiki 批判と同じになってしまうが、実際のところ事典と辞典の成り立ちの違いから必然的に生じる難しさを端的に表した出来事だと思える。

考えてみれば、辞書を作る際にいちばん重要なのが、方針を策定することである。どの語を取り上げるかという部分は、物理的制約の少ないウェブ上ではあまり問題にならないかもしれないが、語義として何を採用するか、そしてどういう順番で並べるか、語義以外の要素として何を記述するか、といった大きな方針を、中心となる編者なしで決めることは難しいだろうし、そういう統一的な方針がない辞書というのが仮にあったとして、使いやすいはずがない。ワーキンググループのような形で方針を決めたとしても、今度は具体的な記事を記述する個々の執筆者に行き渡らせることも難事業だ。少なくとも、wiki のようにだれでもいつでも編集できるシステムでやってしまうのは相当に無理がある。

英辞郎のような、匿名の参加者による協同作業で作られた辞書(のようなもの)の例があるので、完全にオープンな環境で同じようなことをやれるのではないかとぼく自身も考えたことがあるが、Wiktionary での議論を見る限り、ネガティブにならざるを得ない。だれもが日常的に使っている言葉という道具を扱う以上、参加者が増えれば口を出したい人も増え、それが信頼性の向上に向かうよりも混乱の増大という方向に行く可能性のほうが高いだろう。

あと、実務上の問題として、著作権処理の問題がある。英辞郎にしても既存の辞書の記述を相当参考にしていることはかなり知られていると思うが、あからさまな盗用を避けた上で信頼性の高い記述を確保するにも、専任の編集者が必要だと思う。

英辞郎がやっているのは今のところ、既存の紙の辞書制作の途中段階を見せているにすぎなくて(これについてはもっとくわしく述べないとわかりづらいと思うけどここでは省略)、まだオープンな辞書作りの可能性の一端にすら触れたことにはならないと思う。Wiktionary の手本にはならない。それにオープンじゃなくてクローズドだし。

Wiki のスタイルを辞書作りに応用することは可能か。

まず、既存の辞書に対する改善提案の場として wiki を活用することは有力な方法だろう。現に大修館書店がジーニアス英和辞典に対して「英語教育」誌で行なっていることをウェブ上に移すだけなのだから。

むしろオープンな場での辞書作りの方法として可能性が大きいのは、だれでも利用可能なコーパスwikisource のような場に構築することだと思う。
コーパスにしても、信頼のおけるバランスの取れたものを作るには、熟練した編集者の目が必要であることは間違いないのだが、そういう編集段階をひとつ設けることによって、規模的成長にはブレーキがかかっても、バランスの問題はクリアできるのではないだろうか。

そういったわけで、Wiktionary は一直線に網羅的な辞書作りに向かうのではなくて、辞書の基盤作りか補完的な役割に回るほうが有効だと思う。